赤ノ録

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江戸時代最大の謎「徳川埋蔵金」の行方|徳川埋蔵金は皇居の地下に隠されている

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江戸時代末期に幕府によって埋蔵されたとされる徳川埋蔵金は徳川家最大の謎です。数ある埋蔵金伝説の中で最も有名な話ですが「あるとしか言えない!」のはこの徳川埋蔵金だけです。

 

 

今回は、そんな徳川埋蔵金についてご紹介致します。

 

徳川埋葬金とは

徳川家は、慶長8年、1603年に初代・徳川家康が征夷大将軍に就任してから、1868年、第15代・徳川慶喜まで、264年間にわたる江戸時代の王に君臨していた家系。そんな徳川幕府が、幕府再興のために密かに隠した軍資金が「徳川埋蔵金」です。

 

徳川埋蔵金の起源

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※画像引用元はコチラ

 

徳川幕府は1868年、鳥羽伏見の戦いで新政府に敗れた。最後の将軍、徳川慶喜は江戸城を開場。江戸時代は終わりを迎える事となる。※これが江戸城無血開城である。

 

財政難で苦しんでいた明治新政府軍は幕府の御用金を流用できるとあてにしていた。ところが、場内の金蔵は空っぽだった。金貨一枚も発見されなかったという。そして、江戸幕府が財産を隠匿したとして御用金探しが始まったのです。

 

最初に疑われた人物

真っ先に疑われたのは、江戸城開場前に江戸を去っていた勘定奉行の小栗上野介。

 

この時、小栗は領地である群馬県の権田村で暮らしていた。新政府軍は小栗を問い詰めるが、小栗は黙秘を続けたという。結果、小栗は斬首される。

 

徳川埋蔵金の手がかり

当時、御用金探しの噂が広まった頃「船が利根川を遡ってきた。誰かが赤城山に何かを運んでいるのを見た」という噂が広まった。

 

また、斬首された小栗上野介の故郷が群馬である事から、小栗上野介の指揮の元、故郷である群馬の赤城山に運ばれたのではないかと噂が広まった。

 

徳川埋蔵金のチャレンジャー

新政府軍によって赤城山の各所では宝探しラッシュが起こりましたが、なにも発見されることはなく諦める事になります。

 

現在では「赤城山はおとりだ!」などの噂が広まり、他に埋蔵場所があるのではないかと考えるようになっています。現在では40以上の説が存在すると言われています。例をあげるなら、日光東照宮や奥日光、妙義山や足尾鉱山などが埋蔵場所と予想されています。

 

ただ、現在でも小栗の故郷や赤城山が最有力候補であると信じて発掘を続けている人々が存在します。

 

財宝の信ぴょう性

末期の江戸幕府は財政的に大赤字となっていたことから、そもそも埋蔵金はなかった。

という見解もあります。

 

またある一説によると、「運び出していない説」も実は存在します。江戸城の地下に隠されていると言う説です。現在の皇居の地下に…夢も希望もないですね。

 

ただ、この徳川埋蔵金伝説は数ある埋蔵金伝説の中でも最も近い時代のものですので比較的信憑性は高いといえるでしょう。

 

徳川埋蔵金の埋蔵量

徳川家の財産は、当時の価値で360万両から400万両はあったハズだと言われている。これは、勝海舟の日記に「幕府の軍資金として360万両の準備がある」という記述が元となっています。

 

※1両は金37.5グラムだったので、400万両は約金150トンとなり、現在の価値でいうと約3000億~7350億円。

 

まとめ

様々な文献や歴史からあるとしか言えない徳川埋蔵金。今までに数千人以上が挑戦していますが、未だに確信となる手がかりは発見されていません。もしかすると、我々はテレビやマスコミの影響を受けて踊らされているだけなのかもしれません。