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学問の神様「菅原道真」の怨霊伝説と桜石伝説|太宰府天満宮と北野天満宮を超えるパワーストーンとは

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太宰府天満宮と言えば、受験生が毎年合格祈願に訪れる有名なパワースポットです。そしてそこに祀られている神様が、皆様ご存知の「菅公」こと菅原道真です。道真公と言えば、学問の神様として知られていることのほかにも、日本有数の怨霊としても名前を知られているかと思います。

 

日本の歴史上、菅原道真は学問や政治の分野で多大な功績を残した人物ですが、ただなぜそんな優秀で順風満帆な道真公から怨霊伝説が生まれてしまったのか?

 

 

そこで今回は、そんな菅原道真の生い立ちから怨霊伝説までをご紹介しつつ、菅原道真にゆかりのある不思議な石「桜石伝説」についてもご紹介したいと思います。それでは、さっそく見て行きましょう。

 

※ちなみに、この記事では、菅原道真に敬意を表し「道真公」と呼んでいます。決して祟りが怖いからという理由ではなく、また軽べつする意味の「公」でもありませんのでご注意下さい。

 

学問の神様「菅原道真」の怨霊伝説とは

※画像引用元はコチラ:菅原道真(すがわら みちざね)

 

多くの人が「学問の神様以外で」という条件付きで菅原道真(すがわら みちざね)に関する伝説を思い浮かべる場合、「ああ、あの怨霊ね」という言葉が思い浮かぶかと思います。

 

事実、道真公は、崇徳天皇や平将門と並んで、日本三大怨霊にも数え上げられています。学問の神様と、怨霊。何とも不思議な、両極端とも言える伝説ですね。ではそもそも、どうして菅原道真は怨霊になってしまわれたのでしょうか。

 

道真公は、代々学問を修めた家柄に生まれ、道真公自身も学者として非常に才能のある人物であったという事が史実に語られています。当時の天皇の信頼も厚く、西暦901年には右大臣という立場に就任しました。

 

学者出身の大臣、と言われても、現代人の感覚からすれば「まあ、優秀だったんだろうね」くらいのものになりますが、当時はちょっと事情が違います。道真公以前に、学者の家柄から大臣として登用された人物はひとりしか例がない…。と言えば、道真公がどれほどスゴいことをしたのか、わかるのではないでしょうか。

 

考えてみれば、平安時代は貴族の社会だったわけですから、そこで確かな地位を得るというのは、並大抵のことではなかったことが伺えます。

 

そして、この優秀さが皮肉なことに道真公のあだとなってしまいました。道真公の台頭を恐れた貴族や左大臣の「藤原時平」という人物が、なんと道真公を無実の罪に陥れたのです。このことが原因で、道真公は大宰府に左遷されてしまいました。

 

 

菅原道真が飛ばされた「大宰府」とは

※画像引用元はコチラ:大宰府政庁跡

 

大宰府(だざいふ)とは、簡単に言うと「九州諸国を統轄していた官庁」となります。大宰府は主に、九州地方の内政を担当していて、他にも、地方行政機関として軍事や外交を主任務としていた。

 

つまり、菅原道真は天皇の右大臣という地位から、いきなりこの九州の大宰府に左遷(組織の意向により低い役職や能力に見合わない業務に配置)となってしまったのです。

 

しかも当時の左遷は事実上の島流しの刑と同じ意味を持っていました。これがどれほどのショックなできごとだったか、平凡に生きている私たちにはちょっと想像すらできません。

 

菅原道真の怨霊伝説の詳細

 

当然、道真公もショックでした。ショックが大きすぎて、この左遷の翌々年に、59歳で逝去したのです。そして菅原道真の怨霊伝説が幕を開けたのは、この後でした。

 

まず左遷5年後、道真公の弟子にあたる「藤原菅根」という人物が雷に打たれ死亡した。実はこの弟子、貴族や藤原時平の策略に加担しており、共謀して道真公を失脚させようとしていたのだ。

 

翌年には道真公を陥れた藤原時平が急死。数年の内に藤原時平の一族は滅んでしまった。そしてこの辺りから長雨による洪水や伝染病などが蔓延し始める。このような事が毎年のように続くようになり、次第に「これは道真公の怨霊なのではないか」と噂されるようになる。

 

この噂は当時の天皇にも届き、道真公の祟りを鎮めるために、道真公の左遷を命じた勅書を破棄、その地位を右大臣に戻したうえ正二位という位を追贈した。ただその後も祟りは続き、御所の清涼殿という建物に雷を落として犠牲者を出すなど、道真公の無念は確かに残ったという事実が示されました。

 

太宰府天満宮と北野天満宮の違い

昔は災害や疫病が怨霊の祟りだと信じられていました。これは神道の中の「御霊信仰(ごりょうしんこう)」に由来するものです。その為、当時の人々は怨霊を神(御霊)として祀る事で祟りを鎮め、平穏や平和を取り戻そうとしていた。

 

例に漏れず、道真公の魂も神として祀られ、919年には道真公のお墓がある九州の地で「太宰府天満宮」が建立されることとなりました。また947年には道真公の生まれ故郷である京都にも「北野天満宮」が建立される事になった。どちらも菅原道真を祀っているが、これらの天満宮に繋がりはなく、それぞれが独立して総本社(宮)と呼ばれている。

 

現在では怨霊としてではなく、生前の学問の才能にあやかろうと「学問の神様」として崇められているが、一部の人間からは本来の意味の「雷神」として崇められ、現在でも天神様と呼ばれている。

 

菅原道真ゆかりの石「桜石」とは

 

これらの史実の他にも、菅原道真の威霊が感じられる物が現在でも残されています。それが、「桜石」です。この桜石は、別名「セラサイト」と呼ばれ、きちんと学術的にも存在を認められた石となっています。その特徴は、石の断面に桜の花びらのような模様が、浮き彫り状に見えることです。

 

そんな桜石と道真公との間にはどういった伝説が残されているのでしょうか。さっそくご紹介致しましょう。物語は、道真公の左遷が決定したところから始まります。

 

桜石伝説と菅原道真の関わり

 

当時、道真公の側に仕えていた家来に「高田正期」という人物がいました。彼はとても忠義心の厚い人物で、道真公も彼を大事にしていたそうです。ところが、道真公はいきなり大宰府に左遷されてしまう事になってしまいます。その際、形見的な意味を込めて、道真公は正期に大切にしていた桜の木を与えたと言います。その後、この木は正期の故郷に移植され、見事な花を咲かせたという。

 

しかしその翌年、異変が起こります。道真公から贈られた桜が、葉ばかりになり花を咲かせませんでした。正期は、ひどい心配に駆られました。遠い大宰府の地で、道真公に何かがあったのでは?と思ったのです。居ても立っても居られなくなった正期は、すぐに故郷を離れ大宰府へ駆けつけました。

 

心の浮かない日を送っていた道真公は、はるばるやってきてくれた正期を歓迎し、その理由を聞いて大層感動したと言います。道真公は正期の行動を褒め、天拝山(大宰府の山)の土で作った自身の像を正期に持ち帰らせました。故郷に戻った正期は地元の京都に社を作り、道真像を祀ったと言われています。

 

やがて正期も亡くなり、彼の死と共に、道真公の桜も枯れてしまいました。それから、300年後のことです。なんの因果か、突然京都の亀岡市にある「積善寺(しゃくぜんじ)」というお寺の住職の夢枕に道真公が立つようになった。住職は道真公に「積善寺に道真像を祀った社を移してほしい」と頼まれるようになったという。

 

※積善寺:当時、正期の子孫の夢枕にも道真公が立ち、同じように「積善寺に像を祀った社を移してほしい」と頼まれていたという。積善寺と菅原道真(高田正期)の関係性は不明だが、高田正期が当初像を祀った社は積善寺の近くではあった。

 

一体何事だろうかと、住職は大いに悩みましたが、思い切ってかつて正期が祀った道真公の像を積善寺の境内の、かつて桜があった場所に移しました。すると、突然周辺の岩に桜の花びらの形が浮き出し、地面からも桜の花模様の石が出てくるようになったという。

 

これにちなで、道真公の像を祀った社も「桜天満宮」と呼ばれるようになったのだ。ちなみに、現在でも積善寺の境内では桜石が取れるのだが、現在「桜石」は国の天然記念物に指定されていて採取禁止となっている。

 

もうひとつの鬼退治伝説と桜石

実は、桜石には、もう一つ、道真公が登場しない伝説も残されています。それがなんとあの鬼退治に関わるアニメの物語そのものなのです。舞台は、先ほどの積善寺があるのと同じエリア、京都の亀岡市稗田野(ひえだの)と呼ばれていた地域です。

 

10世紀末頃、この付近の山に鬼が住み着いて、人々を困らせていたという事件が起きていました。鬼は身長3メートルほどで、金棒を振り回し、村人や旅人を襲って金品を奪っていたそうです。何となく、山賊か何かが大袈裟に言い伝えられているのでは?という雰囲気がありますが、ともかく当時の人々が困っていたのは事実でした。

 

そんなある日、ひとりの行者(あんじゃ:出家しない僧侶のような者)が稗田野を通りかかりました。仏道や修験道の修行をしている人なのですから、きっと鬼に対抗する方法を知っているはずだと、村人は行者に救いを求めました。行者も、この地にただならない気配を感じていたので、快く引き受けてくれました。

 

翌日から行者は、悪鬼退散の祈祷を始めました。毎日休みなく祈祷が続き、21日後のことです。巨大な桜の木に雷が落ち、倒れた巨木の根元から金や銀、青色をした石が散らばりました。不思議なことにその石には、桜の花びらのような模様が浮かび上がっていたといいます。

 

行者はその石を見てこう言いました。「これは桜石という石だ。鬼どもに向かって投げることで、やつらを退散させられる」行者の言葉通り、桜石を鬼に向かって投げると、山が真っ二つに割れ、鬼たちはその割れ目に飲み込まれてしまいました。

 

こうして鬼はいなくなり、山のふもとからは鬼の涙とも言われる温泉が湧くようになったのだそうです。それが現在の京都にある亀岡市稗田野(ひえだの)地区の温泉「湯の花温泉」だと言われています。この話には道真公こそ登場しませんが、桜石と落雷という、菅原道真伝説に似通ったキーワードが見られる点が、気になる逸話ですね。

 

パワーストーン:桜石の意味と効果

そんな桜石は、現在でもパワーストーンとして親しまれ密かな人気を呼んでいます。鬼退治の逸話に見られるような厄除け・邪気祓いの効果と、道真公ゆかりの学業成就の効果があるとされ、受験勉強の最強のお守りとも言われています。

 

もちろんここでいう「厄除け」というのは、ただ漠然とした「よくないもの」という意味に留まりません。現在でも、ひどいことをする人に「鬼!悪魔!」と言うことってありますよね。このことからもわかるように、「鬼=病気や天災などの悪いもの」という意味に限ったものではないんです。

 

相性の悪い相手とか、苦手な人とか、そういうものも広義では「鬼」という枠で括ることはできるわけです。つまり、桜石はそういった、災いや相性の良くない相手から持ち主を守り、悪影響を弾いてくれる効果があると言われているのです。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか? 菅原道真の威霊が感じられる桜石ですが、こうして見るとやはり「悪い気」はしないですよね。菅原道真の怨霊伝説は確かに存在しますが、この桜石に関しては別物だと考えていい気がします。実際、高田正期の地元、京都の亀岡市から桜石が産出される事を考えると、やはり桜石には「お守り的」な意味が込められているのかもしれませんね。なにはともあれ、学問の神様ゆかりの石とされる不思議な桜石、鬼退治伝説からもわかる通り、厄除けのお守りとしても活躍してくれそうです。