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日本の国教と宗教「神道と仏教」のルーツと歴史|神社とお寺の関係性と歴史まとめ

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日本人は何を信じて生きているのか。ほとんどの日本人が神社やお寺にお参りに行くが、その本質を理解している日本人は少ないと言われている。

 

 

そこで今回は、そんなあまりにも日本人に馴染みすぎてしまった「宗教」についてご紹介したいと思います。宗教は戦争や陰謀論の根元にもなりますので、今一度おさらいしておきましょう。

 

日本の宗教「神道と仏教」とは

まず、日本には主に二つの宗教が存在する。それが、神道(神社)と仏教(お寺)というもの。それぞれには「教派」という派閥のようなものがあり、その数はそれぞれ100を超えると言われている。神道と仏教の勢力はほとんど同じ数となっており、年間参拝者数などもほとんど同じ人数となっている。ただなぜかお葬式に関しては80%以上が仏教方式で行われており、結婚式に関してはほとんどがキリスト教式(教会)で行われている。

 

つまり、ほとんどの日本人がなんとなく神道や仏教、キリスト教などを取り入れている事になる。神社やお寺に関して言えば、ほとんどの方がなんとなくお参りに行き「何に」お参りをしているのかすらわかっていないだろう。では、なぜこんなにも日本人に宗教というものが根付いていないのか?実はその答えは宗教の歴史にある。

 

図解 はじめての神道と仏教

図解 はじめての神道と仏教

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仏教(お寺)と神道(神社)の歴史

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※画像引用元はコチラ

 

まず、神道(神社)のルーツは日本最古の歴史書「古事記」となり、アマテラス系(天津神)が最高神となる。古事記についてはコチラ⇒【古事記に隠された天皇の秘密】の記事をご覧ください。

 

天孫降臨後、アマテラス系の子孫(天皇)がいくつかあった地方国家(土着の信仰)を治めました。そして日本を統治し、当時の天皇は有力な氏族に「姓:かばね」という役職のような称号を与えます。つまり、天孫降臨後、天皇(神道)をトップに現在で言う政治的な組織作りが行われた。そしてその中に、あの有名な物部氏と蘇我氏という最高位の氏族がいました。

 

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※画像引用元はコチラ

 

古墳時代~飛鳥時代(538年)、この時には既に渡来人により「仏教」という物が日本に渡り始めていた。そしてこれが天皇の耳に届く事になる。朝鮮半島にあった「百剤」という地域の王様のような人から、天皇は仏教を強くおススメされる事になったのだ。この時、百剤の王様は天皇へ仏像や径典(仏教の教えや歴史)を送り、いかに仏教が素晴らしいかを伝えた。

 

もちろん他国の王様の為、無下にはできません。これに困った天皇は、日本の氏族を集めて仏教について話合いを行いました。そして登場するのが、当時最高役職級であった物部氏と蘇我氏だった。蘇我氏側は仏教の布教を容認したが、物部氏側は仏教を否定した。この崇仏論争により両者間で争いが起こった。当時は天皇の後継者問題もあった為、争いはより長く激化していった。

 

ひとまず天皇は蘇我氏側に仏教の仏像や径典を預ける事にしたのだが、これが災いを読んだ。蘇我氏がさっそく仏像を祀るお寺を建てた途端、日本で疫病が蔓延し始めたのだ。仏教を受け入れていない物部氏側は、国内に疫病が流行したのを(天津神を蔑にした)仏教のせいだと主張した。この事が原因で、当時の天皇も仏教に対して疑念を持つ事になった。

 

日本古来の神が怒ったと主張した物部氏は、蘇我氏が建てたお寺を焼き、仏像を川に捨てた。これで仏教は消滅したと安堵した物部氏側だったが、直後、なぜか天皇が住む皇居から火が上がった。仏教の祟りを恐れた天皇は、仏教を認めた訳ではないが改めて霊木で仏像を作らせたという。

 

結局、こういった争いが両者の息子の代まで続き、その間に当初の天皇が病死してしまう。そして次の天皇に即位した人物が仏教を容認していた蘇我氏側の天皇となった。物部氏はその天皇の即位に不満を持っていた為、次の天皇は物部氏側の天皇にしようと画策します。(当時の有力な豪族は、権力をにぎるために娘を天皇に嫁がせて血縁関係を築いていました)

 

しかし、それに気づいた蘇我氏はその天皇候補を殺害してしまう。そして結局、蘇我氏は大軍を率いて物部氏ごと滅ぼした。これが丁未の乱(ていびのらん)と呼ばれる戦いです。

 

物部氏を退けた蘇我氏は仏教を布教し始め、推古天皇の時代、飛鳥時代(596年)に日本初の本格寺院「飛鳥寺」を建立しました。そして日本初の憲法に「篤く三宝(仏・法・僧侶)を敬え」の一文が掲載され、仏教が日本に浸透していくことになる。

 

ちなみに、その後も蘇我氏は血縁関係を巧みに利用し、強大な権力を手にします。次第に蘇我氏の権力は天皇をもしのぐと言われるようになり、結局これが後の「大化の改新」に繋がり蘇我氏は滅ぶ事になるのです。

 

日本の宗教の歴史

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※画像はイメージ

 

そして奈良時代(701年~)聖武天皇の時代になってから、本格的に仏教が国家の運営の為に利用されることになる。そして生まれたのが、神様も仏様も一緒という考え方の「神仏習合」という思想だった。この辺りからお寺が多く建設されるようになり、大仏なども多く建立された。また、仏教を通じて中国や朝鮮半島との交流も活発になっていき、次第に学問や芸術も栄えていったと言われている。

 

戦国時代には仏教を弾圧する勢力なども存在したが、その後も神仏習合は続いた。そして江戸時代に入り、徳川家康が新たな宗教を取り入れる事となる。それが中国三大宗教の一つ「儒教」という中国の教えだった。この儒教という教えについては割愛するが、この儒教の教えが当時の武士に刺さり効果的に働いた。

 

結局、その後ペリー来航をきっかけに「明治維新」が起こる。維新の志士達は団結する為に「復古神道」を掲げ倒幕運動を起こした。そして徳川幕府は崩壊。1867年、江戸幕府は政権を天皇に返上「大政奉還」が行われ、明治政府が設立された。※復古神道とは仏教や儒教やキリスト教を排除して、日本古来の神様(天皇家)だけを崇める動き。

 

政権を取り戻した明治政府は「復古神道」を掲げ、日本のルーツである神道を唯一とした【神仏分離】を推進した。明治政府はすぐさまお寺(仏教)を潰しに取り掛かる(廃仏毀釈)が、神仏習合から1000年以上経っていた為これはうまくいかなかった。結局、仏教側の国民から大反感を買う事になり、反感運動が起こった為中止となった。

 

これにより、政府は公式に国家の宗教という物が定められなくなってしまった。ただ、この明治政府から「神道」をベースに国作りを行う事になる。実際、この時から教科書には神道のルーツである[古事記]が掲載されるようになり、古事記が日本設立の歴史の事実として教わるようになった。

 

政府はその後も神道を国民に擦り込んでいくのだが、1945年、第二次世界大戦で日本が降伏。そしてGHQによって「神道の教育が反乱思想に繋がるとして禁止」された。この事がきっかけで、結局教科書にも古事記が掲載されなくなってしまい、信教の自由が認められた。そして、その流れが現在でも続き、日本人のルーツである宗教は曖昧なままとなっているという訳だ。

 

仏教のルーツと神道のルーツ

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※画像引用元はコチラ

 

そんな日本で信じられている神道と仏教だが、実はそもそもこの神道と仏教のルーツには多くの疑惑がある。神道についての疑惑は古事記の記事で触れているが、仏教の教えについても多くの誤りがあるといわれている。

 

そもそも、仏教の教えはインドで発祥してその後に中国、朝鮮半島に伝わり、日本にやってきた。そんなインドで発祥した仏教だが、現在インドでは仏教という教えは絶滅してしまっている。現在のインドは古代インドのバラモン教と民間信仰が融合した多神教の宗教「ヒンズー教」が信仰されている。中国でも仏教は一部の地域(チベットなど)では残っているが、ほとんどが弾圧されており、現在は半数以上の中国人が無宗教となっている。

 

現在初期の正式な仏教の教えを伝承しているのはタイやスリランカなどだと言われているが、その教えは日本の仏教の教えとは大分異なっているという。そもそも仏教の経典は膨大な数になり、解釈がそれぞれ異なる場合が多い。その為、日本でも仏教の教派は数多くあり、それぞれ主張が異なっていたり、信じるものが異なっている。これは仏教が伝来した当初から言える事で、実際、最澄や空海が「学び直し」に中国に行っていたりする。

 

当時からそんな状態ではあったが、そんな時(712年)に「古事記」が完成した。ここで増々とんでもない事が起こる。神仏習合によって、なぜか古事記に登場する神様と仏教の神様を同一視するように改革が行われてしまったのだ。つまり、仏教という教えを日本土着の信仰と結びつけてしまった為に、本来の仏教の教えの真実味というものがどんどん複雑になっていってしまったのだ。

 

仏教と国民生活の関係性

そんな状況が長く続き、戦国時代になって徳川家がお寺を階層組織とする制度を施工した。そして階層化したお寺を中心に、お墓などを含む区画の国民管理までもお寺が行っていった。つまり、ここでようやくお寺(仏教)と国民が物理的に結びつく事になり、武家の配下に仏教、仏教の配下に国民という現在のヒエラルキーが完成したのだ。※天皇家はヒエラルキーのトップには一応いましたが、この時代は権力的にも衰退していたと言われている。

 

ただ、既にこの時には仏教の原型は無かったといわれている。一説では、世界を渡り歩いていたキリシタンが日本の仏教の教えを見た際、「これは仏教の教えではない」と驚いたという。結局「明治維新」までこの流れは続いてしまった。そして一度は「神仏分離」が起こるがすぐに中止となる。そして第二次世界大戦が起こり、信教の自由が認められ、現在に至るまでこの複雑な宗教観というものが日本に根付いてしまっている。

 

そんな風に複雑になっていった仏教だが、唯一「仏教」と呼べるものが現在でも残っている。それが明確な「死生観」だ。神道には記載されていない「死んだらどうなるか?」が仏教の教えだけには記載されていた。これが平安時代(794年頃)の国民に受け入れられ、仏教という「哲学」が生き残る事になった。そして当時この教えを信じるものがお寺などを建立して今に至るという訳だ。前述した通り、これは現在でも唯一仏教の教えとして根付いている。その為、日本人のほとんどがお墓に入り80%以上が葬儀は仏教式となっているのだろう。

 

まとめ

日本の宗教観についてはかなり複雑にはなっているが、これが日本という国です。神様とは何なのか?たぶんこれを明確に答える事ができる日本人は少ないだろう。この問題は、歴代の文豪なども挑戦しているテーマにもなっている。人は何を信じればいいのか?人間は救われるのか?罪は償えるのか?

 

悪く言えば最悪な宗教観だが、逆を言えばこれはオリジナリティとなる。これが日本のいい所でもある。信教の自由が認められている為、信じるものは全て自分で決められるし、宗教観に左右される生き方というものも存在しない。どう生きるか、何を信じるかは全て自分次第となる。宗教というものには陰謀が付いて回りますが、本当に信じられるものに人生を託すという生き方も案外悪くはないのかもしれません。ただ、この複雑な仕組みや宗教観を利用した新興宗教ビジネスなどには十分に注意しましょう。